デビッド・パッカード
デビッド・パッカードとは、世界的に有名なコンピュータ関連企業であるHewlett Packard社の共同創業者である。1912年9月7日、米国コロラド州プエブロ生まれ。少年時代は西部開拓地の名残を残す大草原を何時間も歩き回った。小さいときから科学に興味を持ち、模型や実験装置を作って遊んだ。12歳の時にはかなり高度な真空管ラジオを組み立てて 、ハイスクールに入るころにはアマチュア無線局をもっていた。1929年カリフォルニアの知人宅へ旅行した際、スタンフォード大学を案内してもらい、強い印象を受けた。小学校の頃から技術者になりたいと思っていたので、電気工学を志望して進学した。
1930年秋スタンフォード大学に入学し、すぐにウィリアム・ヒューレットと知り合いになった。 彼とはその後ずっと厚い友情が続くことになる。 大学卒業時、1934年当時はまだ大恐慌の影響から抜け出せず、 就職先を見つけるのも大変だったが、GEから採用通知が来たのでビルと別れて就職した。 ウィリアムは大学院に進んだ。1938年にスタンフォードの特別研究員としてカリフォルニアに戻り、 以前から話し合っていた事業計画について取り組みを再開した。 今ではシリコンバレー発祥の地として知られているパロアルトのガレージを仕事場に、 ハーモニカ用の調律器や可変周波数モーター制御装置など雑多な仕事をこなしていく内に自信がわいてきた。また、2人の才能が補完的なことも、 こういった電気製品の設計製造には役立った。ウィリアムは回路設計が得意で、デビットは製造工程が得意だった。
1939年デビッドとウィリアムはパートナーシップ契約をし、正式に事業化した。 会社名はコインを投げて決めた。ウィリアム・ヒューレットの作ったオーディオ発信器が ヒューレット・パッカードの製品第一号となった。オリジナルモデルをポートランドの技術者会議で披露したとき、 ウォルト・ディズニーの技術者が強い関心をしめし、8台を受注に成功した。
パッカードは、1939年の創立から1947年の株式会社設立に至るまで、パートナーとして働いた。1947年に社長に就任、その後1964年に取締役会会長兼CEOに選任された。1969年には、ニクソン政権下で米国防省次官を務めるために、ヒューレット・パッカードを離れた。3年近くその職務を務め、1971年に辞任。そして、カリフォルニアに戻った後、再び、HPの取締役会会長に選任された。

また、デビッド・パッカードは1996年に亡くなるまで、数多くの専門家集団、教育活動、市民活動、あるいは企業組織の活動にも積極的に関わった。彼は米国電機電子技術者協会の特別会員、米国アカデミー・オブ・エンジニアリングのメンバー、米国インスツルメント・ソサエティの永久会員、アメリカン・エレクトロニクス学会の設立メンバーであり、元会長などを務めたほか、1973年から1981年のあいだ、三者間協議委員会のメンバーを、1975年から1982年にかけて、米ソ貿易・経済協議会において科学・技術部門のメンバーを、1983年から1985年にかけては、日米諮問委員会の議長を務めた。さらに、1990年から1992年まで、科学技術に関する大統領諮問委員会のメンバーを務めた。この他にも、大学、国立機関、コミュニィティ・グループ、ユース・エージェンシー、ファミリー・プランニング・センター、私的資金とボランティアに依存している病院などを支援し、実業界のみならず、幅広い分野で大きな社会貢献を果たした。1996年4月26日没。
デビッド・パッカード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/28 02:32 UTC 版)
David Packard デビッド・パッカード | |
---|---|
![]() デビッド・パッカード(1939) | |
生誕 |
1912年9月7日![]() |
死没 |
1996年3月26日 (83歳没)![]() |
国籍 |
![]() |
出身校 | スタンフォード大学 |
主な業績 | ヒューレット・パッカード |
プロジェクト:人物伝 |
デビッド・パッカード(David Packard, 1912年9月7日 - 1996年3月26日)は、アメリカ合衆国の工学者、実業家。ヒューレット・パッカードの共同創業者。
経歴
コロラド州プエブロに生まれる。幼少時から科学に興味を持ち、模型や実験装置を作って遊んでいたパッカードは、12歳の時には真空管ラジオを組み立て、高校に入る頃にはアマチュア無線局を持っていた。1930年秋スタンフォード大学に入学し、ウィリアム・ヒューレットと出会う。1934年に文学士号を取得。1936年ニューヨーク州スケネクタディのゼネラル・エレクトリックに入社、真空管工学部に配属される。

1938年、真空管の理論を研究するためスタンフォード大学の特別研究員としてカリフォルニアに戻り、1939年に電気工学の修士号を取得。ヒューレットと以前から話し合っていた事業計画について取り組みを再開した。1939年、ヒューレットとパートナーシップ契約を結び、538ドルの資本金でパッカードの車庫にヒューレット・パッカードを設立した。パッカードは1939年から1947年までパートナーとして働き、法人格を取得した1947年から1964年まで社長を務め、1964年から1968年まで最高経営責任者、1964年から1968年までと1972年から1993年まで取締役会会長を務めた。
1969年、ニクソン政権下で国防副長官を務めるためにヒューレット・パッカードを離れる。1971年まで務め、カリフォルニアに戻ると再び取締役会会長に選任される。
1980年代前半から死去するまで、パッカードは妻ルシル・サルター(1987年没)とともに数多くの慈善活動に積極的に関わった。1978年、デビッド・ルシル夫妻はモントレー湾水族館財団を創設した。夫妻は慈善事業であるモントレー湾水族館を設立するために5500万ドルを寄贈し、海洋生物学者である娘ジュリーを代表者に1984年に開館した。1987年に、パッカードはモントレー湾水族館研究所を設立するために1300万ドルを寄付した。以来パッカード財団は研究所の営業予算の約90%を提供している。
1964年、デビッド・ルシル夫妻は慈善団体「デビッド&ルシル・パッカード財団」を設立した。1986年、夫妻はスタンフォード大学内にルシル・サルター・パッカード小児病院を設立するために4000万ドルを寄付した。病院は1991年6月に開院した。1996年3月26日、死去。83歳。
栄誉・受賞
- 1975年 - ワシントン賞
- 1982年 - 米陸軍士官学校よりSylvanus Thayer賞、アメリカエンジニアリング協会(United Engineering Societies)よりジョン・フリッツ・メダル
- 1989年 - 米国科学アカデミーより公共福祉メダル
- 1996年 - バウアー賞ビジネスリーダーシップ部門受賞
- 1997年 - ヴァネヴァー・ブッシュ賞
- 1988年 - アメリカ国家技術賞(「産業界や政治、特に技術関連の広範囲な領域における並外れた無欲のリーダーシップ」に対して)
著書
- David Packard, David Kirby, Karen R. Lewis, The HP Way: How Bill Hewlett and I Built Our Company, HarperBusiness, 1996, ISBN 0887308171
- 伊豆原弓(訳) 『HPウェイ シリコンバレーの夜明け』 日本経済新聞社、2000年、ISBN 4532190215
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 ポール・ニッツェ |
アメリカ合衆国国防副長官 1969年 - 1971年 |
次代 ビル・クレメンツ |
固有名詞の分類
- デビッド・パッカードのページへのリンク